ジャーナル

竹のようにしなやかに、そして進化し、でもこだわりは忘れずに、映画に誠実に、生ききりたい。

作成者: CAST+|Dec 29, 2025 3:15:00 PM

 

2025年に『盤上の向日葵』が公開された映画監督、熊澤尚人氏。APとして映画『スワロウテイル』『リング』等に携わりながらも、学生時代から始めた自主映画を続け、退社後に商業映画監督としてデビュー、という異色の経歴を持っています。自主映画から商業大手まであらゆる分野で作品を作り続ける熊澤氏の、監督としての矜持とは。

 

<プロフィール>

熊澤 尚人(くまざわ・なおと)
映画監督・脚本家

1967年、名古屋市生まれ。大学から自主映画を始め、卒業後は(株)ポニーキャニオンへ入社。『りべらる』がPFFに入選。同社退社後、05年には自身のオリジナル脚本による、『ニライカナイからの手紙』で商業長編デビュー。監督作品に、09年『おと・な・り』、10年『君に届け』、14年『近キョリ恋愛』、17年『ユリゴコロ』など。25年『盤上の向日葵』が全国公開された。

 

8年越しの企画、熊澤監督が惹かれたのは、“生ききる”姿

 

――監督作品『盤上の向日葵』についてお聞かせください

もともと柚月裕子さんの小説が好きで、『盤上の向日葵』も出版されてすぐに読みました。それで、“将棋がないと生きていけない”主人公・桂介にすごく共感しました。桂介の人生に大きな影響を与える東明も、人としては最低なんですが、将棋指しとしては超一流で、命をかけて打ち込んでいる。僕も映画がないと生きていけないので、2人の生き方に胸が熱くなりました。

 

自分にとって一番大切なものに打ち込んで、好きだからこそ苦しんで、それでも命がけで打ち込み、いろんな気付きを得て、人生を‘生ききる’。そんな人間にとても魅力を感じました。大切なものを見つけて生ききることは、これほど掛けがえのなく、魂を揺さぶるものなのかと、伝わる映画を作りたいと思いました。

 

それで、すぐに映画化したいと映画会社の松竹さんへ企画を持ち込みました。松竹さんなど大手映画会社では当然、商業的ヒットが見込める企画でないとゴーは出ないわけです。僕が考えた映画化する際の切り口や、脚色のプランを話し、プロデューサーに納得していただき、企画開発することになりました。

 

ただ、開発決定は制作決定ではなく、とりあえず脚本を作ってみましょう、ということで、制作決定になるまでにはその後、さまざまなハードルがあります。2〜3年かけ、プロデューサーと意見交換しながら僕が脚本を書いていきました。当初から僕はラストシーンの描き方を原作と変えたいと考えていましたし、向日葵の描写や原作にない主人公の恋人になる人物を効果的に動かしたかった。そういった変更、脚色を原作者の柚月さんに提案して、ありがたいことにOKをもらうことができました。

 

脚本を書く際、一番難しかったのは桂介が東明に裏切られ、ものすごく憎いのに、どうしても惹(ひ)かれてしまう……。その思いをどう表現するか、映画としてどう成立させるのか。すごく難しかったのですが、そこが見どころになると確信していたので、すごく注意しながら映画にしていきました。試写を見終えた原作の柚月先生も感極まり、涙しながら傑作の太鼓判を押してくださり、やっと安心したのを覚えています。

 

『盤上の向日葵』の主人公・桂介のように、僕も映画に向かって ‘生ききる’ のが今の願いです。

 

――原作の映画化や脚色には難しさもありますか?

原作者はゼロから作品を生み出している、いわば産みの親ですから、常にとてもリスペクトしています。

ただ、小説と映画はメディアが違うので、原作そのままだと映画にならない場合があります。その場合どうしても脚色が必要になることがあるので、大変難しいですね。

私は、原作の物語、テーマ、世界観などに敬意を払い、大切にした上で、具体的な脚色のポイントを原作者さんに丁寧に相談させていただき、了承を得てから、映像化するよう常に心がけています。

怪獣を見せず、恐怖を伝える。映画原体験は、幼少期の『ゴジラ』

 

――映画監督としての志が生まれた背景をお聞かせください

幼い男の子は、大抵、怪獣が好きになるじゃないですか。映画館でゴジラが上映しているとたまたま知り、親に連れていってもらったのが、名画座で、最初の『ゴジラ』(1954年)の再上映だったんです。モノクロの。これが、めちゃくちゃに怖かったんですよ。

島にゴジラが現れて、電灯が消える。暗闇の中、ドーンドーンと地響きがして島民が怯えている。次の朝明るくなると、巨大な足跡が残っている――。そのシーンがとにかくすごいと思ったのが、映画原体験ですね。ゴジラを見せずに、音と足跡だけで怖さを伝える。もちろん当時は6歳の頃ですから、これが映画的表現であることはわかっていませんでしたけど。でも、この原体験である『ゴジラ』に衝撃を受けて、映画が好きになり、中学の頃には黒澤明監督やフランシス・フォード・コッポラ監督の映画などに衝撃を受けるようになるわけです。

大学に進学すると映画研究部に入りました。新入生だけでコンペして、脚本を書いて選ばれたら、部から製作費が出て、1年生で協力し合って映画を作る仕組みがありました。一生懸命書いたけど、自分は選ばれなかった。悔しくて、その1年生で作品を作った後に、新たに別の脚本を書いて、自費で映画を作りました。できた映画を部の先輩たちに見せたらボロクソにダメ出しされて‥‥。頑張ってバイトして貯めた製作費で作ったのに、踏んだり蹴ったりですよね。

だからまた悔しくて、2年生の時にもう一度映画を作りました。それが夕張の映画祭(現・ゆうばり国際ファンタスティック思い出映画祭)に招待されたんです。

 

――悔しさをバネにして作った映画で映画祭に招待されたのですね

それで、「これはひょっとして?」と勘違いして(笑)。三本目の作品を作ったら、次の年も夕張の映画祭に招待されて、集英社主催の映像コンテストにも入選して‥‥で、四本目の作品をPFF(ぴあフィルムフェスティバル)に初めて応募したら、全然ダメで。でも、審査員の武藤起一さんに手紙をもらって、すごくためになることが書いてあって‥‥それで、やっぱり悔しかったですね。

それが大学3年生の頃です。卒業後どうするか、考えなくてはならない時期でした。実家にも事情があり、進学の際に借りていた奨学金も自分で返済しないといけないので、就職しないと、と思って卒業後はポニーキャニオンに入社しました。ポニーキャニオンはレコード会社として有名ですが、映画や映像制作に力を入れるようになっていました。

最初の配属先は宣伝部でした。とても忙しい仕事だったのですが、やっぱり映画を作りたいんですよ。次は是が非でもPFFに入選したくて。当時、会社には「年に9日間は有給休暇を取らないといけない」というルールがあって、その休暇を全部注ぎ込んで、自主映画を撮ってPFFに出品したら入選したんです。会社には黙っていたんですが、同じ業界だから知られてしまって。

当時なので、社内で問題になったようですが、「これからはこんな社員もいた方がいいよ」と言ってくれた取締役がいて、大変助かりました。ちょうどその頃、有名な映画プロデューサーの河井真也さんがフジテレビからポニーキャニオンに出向されて来て、先程の取締役から、河井さんのAPになるように言われて、映画にますますのめり込んでいきました。

 

やっぱり監督をしたい。会社を辞めて映画監督の道へ

 

――そこから、ポニーキャニオンを退職して映画監督の道を歩まれたのはなぜですか?

APとしては河井真也さんの下で、岩井俊二監督の『スワロウテイル』(1996年)や『リング』『らせん』(1998年)などに関わりました。

 

『スワロウテイル』は衝撃的な映画ですよね、映像も音楽もファッションも最先端で、邦画のイメージを一変させる映画でした。そんな作品に関われて幸せでしたし、すごく楽しい仕事だと思っていたんですが、岩井俊二監督たちと話していると、自分は本当は映画を監督したいんだな、と思い出してしまうんですよ。会社でこのままAPを続けて頑張っていたら、多分プロデューサーになれそうなんだけど、会社の方針が理由で、監督にはなれなかったので。

 

すごく悩んだ末、思い切って会社を辞めて、監督を目指してチャレンジすることにしました。会社を辞めたので収入がありませんから、仕事をしないと食べていけません。三池崇史監督の作品のメイキング監督や、カラオケビデオ、ミュージックビデオ、イメージビデオ、低予算のVシネの監督など、いろんな仕事をしました。

 

ミュージックビデオはたくさんやりました。90年代、2000年代はミュージックビデオ全盛期で、面白いものがたくさん作られていました。僕はドラマ仕立てのミュージックビデオにこだわって作りました。あるミュージックビデオでは18歳の蒼井優さんに主演してもらいました。他には岩井俊二さんに声をかけていただいて、一般公募の脚本をラジオドラマにする、監督の仕事もしましたね。もう何でもやる、という感じでしたね(笑)。でも、みんな面白い仕事ばかりでした。

 

――商業映画監督としてのキャリアはどのように築かれたのでしょうか?

あるプロデューサーから「オリジナル映画の企画を募集している、複数の有力な若手に声をかけてコンペをする」という話があって、手紙にまつわる良い話を題材にしてほしいとのことでした。ただし、締め切りまではあと四日しかありません。でもチャンスだと思い、必死にプロットを考えて何とか提出したら、コンペで勝ち抜いて選ばれて、オリジナル脚本で商業映画監督デビューできたのが、沖縄の竹富島を舞台とした『ニライカナイからの手紙』(2005年)です。

 

主演は蒼井優さんで、200人くらいオーディションをした中から選びました。やっぱり演技力がダントツ、ずば抜けて良かった。沖縄で行ったオーディションでは、高校3年生の比嘉愛未さんに出会いました。オーディションの部屋に入ってきた瞬間から、ものすごく輝いていて。比嘉愛未さんは主人公の幼馴染として出演してもらいました。その後、比嘉愛未さんは朝ドラのヒロインに選ばれ、大活躍されはじめるわけです。

 

――俳優の若手育成にも関わられていますか?また、新人発掘についてどのような点に着目されますか?

新人俳優の育成にも力を入れています。演技レッスンもできるだけ関わるようにしています。新しい出会いがあることは大切ですね。蒼井優さん、上野樹里さん、多部未華子さん、山崎賢人さん、小松菜奈さんなど、映画・ドラマ界を引っ張っている人たちが、20歳前後の頃に一緒に映画作りをさせてもらった経験からも、若手にどう輝いてもらうのか、その重要性はとても大きいなと感じますね。


初対面で光るものを持っている人は、やはりその後大活躍されていますね。演技力も大切ですが、話し方や「こういう顔をするんだ」とか、「こんな佇まいになるんだ」「こういった動きをするんだ」とか。ちょっとした仕草とかに、とても魅力を感じますよね。

「新鮮な人」を探したい

 

――映画のキャスティングについて、CAST+のようなプラットフォームに期待することがあればお聞かせください

画期的ですね。キャスティングは手間暇が膨大にかかる作業なので、そこを減らせることに期待します。また、スピードもアップするでしょう。

 

それに、「出会えない人に出会える」魅力をすごく感じています。『盤上の向日葵』では、主人公の母役のキャスティングにとても苦労しました。というのも、「新鮮な人」をキャスティングしたい、と考えたから。この役はミステリアスな雰囲気を出したくて、「あの作品に出ていた、あの役の人」ではなく、「あの人は見たことない人だな」にしたかったんです。

 

これが大変でした。なかなか見つからなくて、ツテを頼って懸命に探して、たどり着いたのが台湾のジエン・マンシューさんでした。出演された作品は見ていたのですが、僕は必ず今のお芝居を見ますから、台湾とオンラインで繋いで、通訳さんを入れて面談をしました。それでやっと、みんなが知らなくて、日本人と違う、どこかミステリアスなニュアンスが出せる俳優さんと巡り会えたわけです。時間がかかりましたね。


こういったケースに、CAST+のようなサービスは効果的ですね。このサービスがあれば、無名でも魅力的な人を探せるようになります。実は今準備している映画にも、「誰も知らない人じゃないと演じられない、知っている俳優だと物語が成立しない」という役があるんです。映画には常に新しい出会いやサプライズがあった方が面白い。そこが革新的に変わるんじゃないかと思って、期待しています。

 

――最後に、映像業界を目指す若手の制作者や俳優に伝えたいこと、応援メッセージをお願いします

竹のようにしなやかに、でも自分のこだわりは忘れない。それは、監督でも俳優でも同じです。


監督は、柔軟じゃないと通用しません。でも、「これを作りたい」という衝動、自分のこだわりがないと、作品は作れないです。それは表現の根っこと言われる部分で、それがあるから、どんな大変なことが起こっても、表現することを全うして、映画を完成させられるんですね。ただわがままを言うのではなく、自分がなぜそこにこだわりがあるのか、ちゃんと説明して、周りに理解してもらい、共感してもらえることが大切ですね。そのこだわりが時代遅れになったり、求められなくなれば、映画を作ることはできなくなります。だから映画監督も変化、というより進化していかないと、生き残っていけないと思ってます。

 

キャリアの少ない俳優さんは、それぞれ好みの違う監督さんたちから、いろいろと求められてお芝居をする事が多いと思いますが、監督によって求める演技が、全く逆だったりもします。でもその両方に応える力が必要になるわけです。だから竹のようにしなやかに、演じられると良いわけです。でも、台本を読んで、この役は自分だったらこう演じたいという、こだわりや衝動、欲がないと面白くないし、お芝居を続けられないですよね。

 

だから、こう演じたいという気持ちを、大切にしてほしいです。