ジャーナル
2026年06月30日配信

インディペンデント映画を中心に、監督・助監督・プロデューサーとして幅広く活動する松倉大夏監督。海外共同制作の現場も数多く経験し、日本の撮影文化を内側と外側の両方から見つめてきました。近年は、若手演出部の育成と労働環境の改善にも積極的に関わり、シンポジウムへの登壇や勉強会の場づくりにも取り組んでいます。松倉監督の視点を通して見る、映画制作の現場とは?
<プロフィール>
松倉大夏(まつくら・だいか)
映画監督・助監督・プロデューサー
1978年生まれ、神奈川県三浦市出身。2004年よりフリーランスの助監督として活動を開始。2013年の監督作『君のことを忘れない~女優・渡辺美佐子の戦争と平和~』(WOWOW)で日本民間放送連盟賞優秀賞を受賞。2022年 映画『やまぶき』では制作プロデューサーを担当。2023年 日本と韓国の陶芸文化の交わりを追ったドキュメンタリー映画『ちゃわんやのはなし ―四百年の旅人―』を公開。
――まず、映画の仕事を始める前の話から聞かせてください。ご両親がアーティストだったと伺いましたが。
両親が現代美術の作家をやっていました。自分ではそんなに意識していなかったんですが、周りと比べると相当特殊な家庭だったんだろうなと、大人になってから思いましたね。
幼い頃は厚木の山奥にある、誰も管理していないお寺を借りて暮らしていたんです。お寺の掃除とか、法事の手伝いをすれば家賃がタダになるから、って。3歳から10歳くらいまでそこで育ちました。学校まで山の中を30分ぐらい歩くような場所でしたね。
その後、親が離婚して、母親とそのパートナーが住む三浦市に引っ越したんですけど、そこがまた変わった場所で…。木材倉庫を改造した建物で、屋根と壁はトタンで内装はベニヤ。彼らはそこで作品を作りながら、寝泊まりしていました。成長してくると「自分の部屋が欲しいだろう」ということで、倉庫の一角を仕切って三角形の個室を作ってくれました(笑)。
ただ、壁とトタン屋根の間に隙間が空いていて、冬は雪が入ってくるし、トタンだから夏は外より暑い。海沿いだから台風も来るし、ある朝なんか冷たいなと思って目が覚めたら、屋根が吹っ飛んでベッドが雨でびしょびしょになってた、なんてことも(笑)。中学・高校になると、その場所はみんなが集まるたまり場になっていきました。秘密基地みたいで、すごく自由な場所ではありましたね。
――クリエイティブな環境は、映画の世界に向かうきっかけになったのでしょうか。
貧しい生活への反発もあって、美術は絶対に嫌だなと思っていました。現代美術を追求することは素晴らしいのですが、お金にならない。高校や大学になると重い鉄板を使った親の作品の手伝いをさせられて「家業を手伝うのは当然でしょ」と言われても、滅多に売れもしない作品で食わせてもらってるわけではない、と憤ることもありました。
ただ、クリエイティブな仕事に魅力は感じていましたし、生業として、プロフェッショナルとして仕事をしたいと思いましたね。高校の頃からテレビや映画が好きだったので、クリエイティブな仕事の中でも、映像に関われたらいいなというのは漠然と考えていました。
――映画の世界に入るきっかけを教えてください。
高校時代はバスケットボールに夢中で、大学では本格的にチャレンジしたいと思い、自分は一般入試でしたが、スポーツ推薦の選手たちに混ざってバスケを続けました。スポーツを生業にするというのも面白かったのですが、やはり、クリエイティブなもの作りに関わりたいという思いが強く、バスケは一年くらいで辞めました。それからは、大学には全然行かず、酒を飲むか、名画座に映画を見に行くか、麻雀をするか、あとは女の子と遊びに行くか、みたいな生活をしていました。
そもそも、どうすれば映画の仕事ができるか分からなくて、周りの人たちに「どうやったら映画の仕事できるかな」とか「映画監督いないかな」と聞いて回っていましたね。そんな日々を過ごす中、高校時代のバスケ部のOBにインディペンデントの映画監督がいると聞きました。紹介してもらったのが矢城潤一監督で、すぐに制作部の見習いとして現場に放り込まれました。
――初めての現場はいかがでしたか。
丸1ヶ月、休みもなくひたすら働きました。三浦からは通えないので、都内の友人の部屋に寝泊まりして。ある日「明日は休んでいいよ」と言われたので、当時付き合っていた彼女と久しぶりに会うことができました。一緒に食事をしようとした昼頃、「やっぱり来てくれない?」と電話が(笑)。彼女には「ごめん、帰って」と伝え、すぐに現場に向かいました。大学卒業後にこれを仕事にするとなると…いろいろ考えてしまい、大学院に進んで哲学を学ぶことにしました。
「映画には哲学が必要だ」というのが建前ですが、少し回り道をしましたね。それから2年が経ち20代後半になった時に、一念発起して、以前お世話になった制作部の人に「やっぱり映画の現場をやりたい」と連絡しました。「じゃあ来週から大阪に来られるか」ということで大阪へ。
そこから3ヶ月、ホテルに軟禁状態で撮影をこなしました。それが、史上最低の制作部の体験だったと、今でも思います(笑)。
――その後、助監督として多くの現場を経験されてきたわけですが、作品を選ぶ基準はどのように育っていきましたか。
あの頃は仕事がないから断れず、先輩に誘われたら仕事を選ぶことなく受けていました。フリーランスで翌月の仕事がないのはものすごく不安でしたから。でも、ある現場に入った時に気づいたんです。監督もプロデューサーも乗り気じゃない、スタッフもグチグチ文句を言っているだけ。一体誰がこれを作りたいんだろう…って。そんな現場で、面白いものができるわけないですよね。この気づきをきっかけに、必ず自問するようになりました。「誰がこれを作りたいのか」「自分がこの現場に加わることでプラスになることはあるのか」と。
テレビドラマなら放送枠があって、作るスケジュールも決まっている。でも、映画の場合には何の保証もない。資金も配給も、何一つ約束されていない。だからこそ「これをどうしても作りたい」という人の熱量でしか成立しないんです。その熱量に動かされて、自分もこれに参加したいなと思えるかどうか。今もそれが作品選びの基準になっています。
――現在進めている作品についても聞かせてください。
助監督としては、永田琴監督の作品で、福島の震災後の除染作業を巡る社会派ノワールを準備しています。それとは別に、監督として撮り始めているドキュメンタリーもあって、コント赤信号の小宮孝泰さんのことを撮っています。
小宮さんは20年以上、一人芝居を続けているんです。題材は、ご自身のお父さんの実体験で、戦時中に朝鮮半島の鉄道で働き、終戦後に命からがら引き揚げてきたという話です。占領者でありながらその土地で生まれ育って、戦争に負けて故郷を追われる気持ちってどんなだったんだろう、という問いがこの芝居の核心にある。30人ぐらい出てくる役柄を小宮さん一人が演じ分けるのですが、十数年前にはじめて観て感銘を受けました。
去年、久しぶりの上演があって「これを逃したら次はいつになるか分からない」と思って撮影させてもらいました。稽古と本番は撮り終えましたが、小宮さんは今年70歳になります。この先、小宮さんは「一度は、お父さんが働いていた駅を訪ねたい」と言っていて、父の故郷を目指す場面もドキュメンタリーとして撮りたい。ただ、その駅は北朝鮮にあるので簡単ではなさそうですが、どれだけ難しくても最後まで描ききりたいと思っています。
――キャリアの中で、海外の現場も多く経験されてきましたね。
日本の映画ですが、フィリピンのマニラでの撮影に参加したり、韓国の配信ドラマでは演出部として参加したり。直近では、全編日本で撮るフィリピン映画に、制作プロダクション全般、ラインプロデューサーといった役割で参加します。
以前参加したフィリピンでの撮影は、吉田恵輔監督の「いとしのアイリーン」という作品でした。撮影自体は5日で滞在は10日程度でした。日本側のメインスタッフは7人くらい、あとは現地のプロダクションで、助手は全部で20名くらい。技術パートの助手もそうだし、制作部やキャスティング、美術部はみんなフィリピンの人たちでした。
通訳はいましたが、制作部や美術部でちゃんと現場のことがわかってコミュニケーションを取れるのは、僕ぐらいしかいなかった。僕は英語が得意ではないけど、撮影現場での熟練度があれば、カタコトの単語を並べるだけでも伝わるものです。声色や身振り手振り、文化的背景でほとんどの意思疎通ができる。そうやって「勢いの英語」で乗り切っていたら、フィリピンのプロデューサーに「こんな助監督はアジアにはいない」と言われました。
――韓国作品の現場はいかがでしたか。
「愛のあとにくるもの」という韓国の配信ドラマでは、助監督として参加しました。イ・セヨンという韓国の女優と坂口健太郎さんが、学生の頃に日本で出会って別れてしまい、作家になった坂口さんが彼女と韓国で再会するという話です。
撮影は韓国と日本でそれぞれ約2ヶ月ずつ。スタッフはほとんど韓国チームで、日本での撮影では演出部、制作部と美術部が参加しました。すごく大変な現場でしたが、異文化のぶつかり合いが面白くて、いろんな気づきがありました。
フィリピンや韓国との共同制作を通じて、日本の助監督のシステムってものすごく独特で、多分海外ではなかなかないシステムなんだと思いました。
例えば、日本では演出部の「サード」がカチンコを入れます。でも、海外では撮影助手がやるのが主流。それに、日本では衣装は衣装部が担当するけど、靴とバッグは持ち道具の担当になる。少し考えれば分かりますが、身に着けているものは全部ファッションとしてトータルでコーディネートした方が自然ですよね。みんな、そういう慣習をおかしいと思いながらも、ずっとそうやって進行しているから変えられない。
国内だけで作り続けていると、疑問すら出てこないし気付けないことがたくさんあります。海外のチームと一緒に仕事をすることで、「なぜこうなんだろう」という問いが初めて生まれてくるのだと思います。
――最近、日本映画の海外共同制作は増えているように感じます。
本当に増えていますね。韓国とのドラマや映画の共同制作も多くなりましたし、お互いの文化の垣根が低くなってきているように感じます。それに、今年のカンヌのコンペに日本映画が3本入るなど、どんどん外に目が向いていっているというのは、日本の映画として非常に良いことですよね。
4〜5年前には、当時の韓国映画の勢いもあり、「日本の映画は長い間、国内だけに向けて作ってきた」といった批判が、どこでも声高に叫ばれていました。ですが、今は確実に変わってきています。そういう意味では、今はすごく面白い時期ではないでしょうか。
――映画監督協会の90周年パーティーで、ベテランの監督たちが続けて「助監督が育っていない」と話されていました。
10年後の映画界を語るシンポジウムに、私は助監督出身の代表として参加しました。パーティー会場のあちこちでも、登壇した方々も、みんな助監督がいない、と話をしていました。大御所の山田洋次監督がスピーチで「今、助監督が育っていないのが心配だ」と仰っていて、次に登壇した根岸吉太郎監督も同じようなことを言いました。
自分が日頃感じている危機感を、長く活躍してきたベテラン監督たちも同じように感じているんだと、妙に感慨深かったですね。同時に、これまで何十年もの間、みんな気づいていたのに何も変えられなかったということでもあります。
――育成の仕組みが整っていないということでしょうか。
日本の助監督の仕組みは、撮影所時代に生まれた独特のものです。「サード」がカチンコと小道具回り、「セカンド」が俳優回りと衣装、「チーフ」がスケジュール、という具合に細かく担当が分かれ、監督になるための訓練としてよくできたプログラムだと思います。
でも、撮影所がなくなりフリーランスの集まりになってからは、その技術の伝え方は「師匠から弟子へ」という継承の仕方でしか続いていない。だから現場に入ってきた若い人は「何が分からないかも分からない状態」でカチンコを打つことになります。撮影監督協会とかでは、若手向けの講習会などやっているのに、演出部にはそういったものがほぼ存在しません。
――松倉さん自身は、助監督という仕事をどう捉えていますか。
出身が助監督ですし「生業として助監督をやっている」ということですかね。助監督の仕事が好きなんでしょうね、きっと。だからこそ、最近つくづく思うのですが、日本映画をより良くしていく、良いものを作り続けていきたいと考えたときに、おこがましいかもしれませんが、助監督や演出部がしっかり育たなければ「良い作品」をつくり続けていけないんじゃないかと。
若い頃は、本当にひどい現場をたくさん経験してきました。死ぬほど働いているのにギャラが安い、お金がもらえず貧しい生活をしている。それが当たり前だという風潮がありました。そんな環境・待遇でも映画をやりたい人だけが、熱意のある人だけが残ることができる…ふるいにかけられている感じです。
さらに、他のスタッフよりも俳優部の方がより劣悪な環境で……。少し顔が知られていてもバイトをしているとか。今の状況は「映画作品だったらタダでも出たい」という気持ちを利用していると言われても仕方がないと思います。映画を志す人たちがふるいにかけられるようなことをしていては、優秀な人材がアニメやCG、ゲームなどの他業界にどんどん流れていってしまいます。
やはり、自分が助監督出身というのもありますが、作品作りの根幹は「演出部」だと思っています。これから先も、良い映画を見たいし作っていきたいと考えると、育てる仕組みが必要ですよね。そういった危機感から、同年代の仲間が立ち上げた「助監督ドットコム」というサイトやシステムをサポートしていて、そこを通じて集まる若い助監督や演出部を志望する人たちと、定期的に顔を合わせたり、情報交換をしています。
――今、変化の兆しは感じていますか。
変化は確実に感じています。ハラスメントへの意識は変わったし、インティマシー・コーディネーターが現場に入ることも当たり前になってきた。労働環境への意識も、以前とは全然違います。ただ、個々の現場での意識改革には限界があって、最終的には法律で規定されないと根本的なところは変えられないように感じています。
例えば、韓国では労働時間の上限に関して、トップダウンで法律を定めて、そこから現場が変わっていった。文化として映画が政治的な場でも扱われるようになることが、本当は必要なのかもしれません。
――個人として実践していることはありますか?
スケジュールを組む時に、準備期間中は必ず土日を休みにしようとしています。撮影に入ってしまうと難しい場合もありますからね。映画の仕事を続けていて一番辛かったのは、友人の結婚式への出欠が直前まで判断できないことや、恋人ができてもデートの約束ができず、長続きしない(笑)。
全てを投げ打って映画に関われる人だけが生き残れる、というのは時代遅れだと思います。人間らしい日常が確保できるからこそ、良い仕事ができる。小さなことかもしれないけど、そういうことを一つずつ増やしていくことが、現場全体の文化を変えていくことにつながると信じています。
報酬の面では、スタッフ全員が作品のヒットに正当に参加できる仕組みを作ろうという動きも出てきています。作品がヒットしたら数パーセントでも、スタッフに還元される。映画は集団芸術だから、末端のスタッフまで全員が作品作りの一端を担っているわけです。そういう動きが業界全体に広がっていって欲しいと願います。
――CAST+のようなプラットフォームに期待することはありますか。
キャスティングって、最終的にはどうしても「人」なんですよね。よく知っている俳優、個性を知っている人に頼みたい。その信頼感をどうデジタルで再現するか、というのが一番難しいところだと思います。
以前、吉田恵輔監督の『ミッシング』で無料のワークショップオーディションを開催したことがあって、書類だけで2,000人以上の応募が集まりました。フォロワー数とかではなく、平等にチャンスを与えたいという吉田監督の意向で、参加費は無料。実際にワークショップに呼んだのは約160人で、最終的に30人くらいをキャスティングしました。
オーディションで選ばれるかどうかは、やはり監督の芝居の好みが大きい。例えば、藤原竜也さんが出ている『カイジ』のような、感情をぶつけていく芝居が好きな監督もいれば、ダルデンヌ兄弟の映画みたいにドキュメンタリーと見紛うほどのリアリティを求める監督もいます。だから、そのオーディションに応募するなら、まずその監督の作品をちゃんと知っていないとダメなんですよね。吉田監督の作品で、歌い上げるような2.5次元の芝居をやっても絶対に選ばれない。監督がこの役に何を求めているかが分かっていないと、そもそも門前払いになってしまう。その上で、台本の微妙なニュアンスを表現できる力があるか、あるいは表現力が多少いまいちでもそのキャラクターにぴったりはまって面白いと思ってもらえるか、ということになってくると思います。
プロフィール1枚では雰囲気しか分からないけど、実際に芝居を見ると印象は全然違います。動画でもそれに近いことができると思いますし、俳優の個性や演技のスタイルで検索できれば、キャスティングの可能性が広がります。「誰でもいい」という条件検索なら既存の方法で事足りるけど、「こういう芝居が得意な人」を探せるなら意味があります。プロフィールでは分からない個性をプラットフォームの中で見つけられるようになること、それが実現できたら、映画の現場でも本当に頼りになると思います。
――映像業界を目指す方に、メッセージをお願いします。
映像業界を目指している皆さんは、制作現場にどういったイメージをお持ちですか。
厳しいベテランのスタッフが怒鳴り声を上げている姿を思い描いていますか?新人たちが長時間労働で、仕事が終わらずに椅子で寝ている様子でしょうか。それとも、いまだにハラスメントが横行していて、若いスタッフが引きつった笑顔で困っている姿でしょうか…。
20年近く撮影現場に携わってきた私は、ここ数年で本当に雰囲気が変わってきていると感じています。かつては理不尽なことで苦しい思いをしたり、旧態依然とした慣習に囚われて不自由な思いをしたこともありました。それでも、近年は確実に変化してきています。あらゆる現場で徹底されていると断言はできませんが、個人的な経験と、周りの仲間や先輩後輩から聞いた話を元に言えば、間違いなく変わってきています。
私が仕事を始めた2000年代には、映画を志して入ってくる若い助監督に「本当に大変な仕事だから、無理して続けなくていいよ」と言ったこともありました。そんなアドバスを跳ね返す気概がないと続かない仕事だと思っていたのが半分、本気で勧めたのが半分。でも今は、本人が続けていこうとするなら、その思い描く道筋を後押ししたいと考えています。
私には8歳の息子がいます。私の影響なのでしょうが、映画が大好きで、毎週映画館に連れて行ってとねだってきます。気に入ったアクション映画の公開日を暗記して、「もうすぐ始まるね」と何度も囁いてくる。今はまだ映画の仕事がやりたいとは言いませんが、もしそう言われたら——正直、非常に悩むと思います。今までのような労働環境では、息子に勧めることができないから。
だからこそ、自分の息子にも勧められるような業界にしたい。まずは最前線で働いている私たちの意識が変わることで、次世代が進んで入っていく仕事になるはずです。そして胸を張って、若い人たちに勧められる職種になると思っています。
ただ、個人の力でできることは多くありません。大きな声をあげられる集団として集まること。そして最終的には、法律として規定されること。それが必要だと感じています。